宜蘭市街内には通りに面して建つ廟が由来となった通りの名前がいくつかあります。
文昌路もその一つ。文昌路というからにはもちろんそこに建つのは文昌帝君の廟です。
入り口近くに沿革が記してありました。
宜蘭文昌廟の創建は、清の嘉慶28年=1818年。台湾に派遣されていた通判の高大鏞なる人物が、宜蘭の読書人のための精神的なよりどころとして文昌宮を建てたといいます。
通判というのは各地方に派遣され、反乱などの兆しがないか監督する監視官のような役割です。
また、この時代の読書人とは科挙合格を目指して四書五経を学ぶ人のことを言います。
もとは関帝殿が前、文昌壇が後ろにあったものを、左右に分けて祀るようになりました。
2つ目の門を入ると、向かって右に麒麟、左に馬の像が置かれています。
麟趾呈祥は子孫繁栄を言祝ぐ言葉。
馬到成功は、有能な武将が馬で駆けつければ勝利を得られるというところから転じ、能力がある人が目標を目指して努力すれば必ず成功できるという意味。
この中央部分を境に、向かって右に文昌殿、左に関帝殿が置かれています。
まずは文昌廟というからには主祭神の文昌帝君。
香炉の左右には福徳正神。
文昌帝君の配下で、ともに学問の神様である魁星爺。
文昌帝君は学問全般の神様であり、魁星爺はその神名により魁、つまりトップをとれるようにお願いする神様です。
こちらは宋代の五夫子周敦頤、程顥、程頤、張載、朱熹の位牌。
周敦頤は程顥、程頤の師で、張載は程顥、程頤の叔父。朱熹は周敦頤、程顥、程頤、張載それぞれの著述から『近思録』を編纂するとともに、朱子学を確立しました。
朱子学は日本でも水戸学に影響を与え、ひいては明治維新にも影響を及ぼしています。
位牌の前に祀られる像は、漢字を創始したとされる神・倉頡であるようです。
続いてその隣の関帝廟。
関聖帝君は武神であるとともに商売の神でもあり、また、文昌帝君、魁星爺、朱熹であるという設定もある朱衣神君、そして孚佑帝君と、学問神の戦隊である五文昌を結成しています。
この像の中にも孚佑帝君が混じっているかもしれません。
配神として観世音菩薩。
西秦王爺は、この廟の一部が戦後に總蘭社という楽団に占拠されており、彼らの守り神として祀られていたものが合祀されたということのようです。
西秦王爺の招待については、唐の太宗、唐の玄宗、玄宗に仕えた楽官その他いろいろな説があり、つまりはそのどれでもない神様なのだと思われます。