米街廣安宮

台南の大天后廟の前にある細い路地を抜けると、台南随一の観光地として有名な赤嵌楼の斜め向かいぐらいに出ます。その道路をはさんで向かい側にあったのがこの廣安宮です。小さそうな廟ではあったけれど、目の前にあるのだからと寄ってみました。

この前を走るのが民族路。ここから右にちょっと行くと赤嵌楼があります。赤嵌楼は10年以上前に一度行ったし、入場料を払ってまで行くようなところでもないのでスルーです。

廟の前には黑令旗が掲げられます。黑令旗は玄天上帝の軍団が駐留していることを示します。本来真っ黒であるはずの黑令旗がこんなに煤けているのはかなりの年月が経っているからだと思われます。

実はこの廟、かなり由緒があるようです。

創建は清代の雍正元年=1723年、現在新美街という名称になっている民族路と成功路を結ぶ路地は、その周囲に米穀店が多かったために米街と呼ばれていました。創建時の廣安宮はその米街にありました。

しかし台湾総督府お得意の道路拡張による排除にあい、移転を余儀なくされ、米街より北側の「明治町」へ移っています。この写真は明治町にあったときのもの。そしてこの建物は2003年に台南市の古蹟指定を受けています。現在廟の再建計画があるとかで、どうもこの廟はそれまでの臨時のもののようです。

入り口正面には中壇元帥と、五府千歳のうち池府千歳であるようです。

五府千歳は天帝より地上の悪霊・瘟神を取り締まる「代天巡狩」の役割を賜った五柱の王爺のこと。ただそのメンバーは地域によって違いがあります。廣安宮の五府千歳は、池府千歳を筆頭に邢府千歳、金府千歳、何府千歳、馬府千歳の五柱という組み合わせです。

まず池府千歳は唐高祖・太宗に仕えた池夢彪という武将。池夢彪はある日夢で玉皇大帝から地上に疫病を広める命を受けた瘟神と出会って引き止め、痛飲します。そしてこのまま疫病を広めてしまってはいけないと、瘟神を騙して疫病をもたらす毒薬を飲んでしまい、目を飛び出させて死にました。死後、命令を果たせなかった瘟神に引き連れられ玉皇大帝に謁見した池夢彪は、その民を愛する心に感心した天帝より代天巡狩の命を受け王爺千歳となりました。

なぜ天帝が地上に疫病を広めようとしたのかは不明です。天罰を与える必要があったのかもしれません。王爺信仰は、もとは天罰としてとらえられていた瘟神をなだめる信仰から、逆に瘟神から地上を防衛する神様への信仰として変化したものだと考えられています。

邢府千歳はよくわかりません。系統によっては7人邢府千歳がいるとも考えられているようです。

金府千歳は朱元璋麾下の金玄元という武将で、モンゴル征討に功があったとか。死後天帝より代天巡狩の命を賜ります。

何府千歳は名仁傑という唐代の役人で、昆明の長官を勤め、よく民の苦難を救った名君であり、死後神様として祀られました。しかし神様になった後、瘟神として地上に疫病をふりまくことを命じられます。名仁傑はしかしそれをあわれと思い、病毒を自ら飲み干してしまいました。玉皇大帝はその犠牲の心を感心され、代天巡狩の役割を与えます。

馬府千歳もよくわかりません。馬亮という宋代の判官であるという記述もみつけたものの詳細は不明です。

左右には七爺八爺が控えます。

祭壇の横には五營神將と首だけ高元帥、田都元帥。高元帥はもとの人間のモデルはおらず、出生時に火に包まれてうまれたために妖怪のたぐいだと思われて川に捨てられたところを薬師如来に救われ、後に天帝から元帥神に封じられたとのこと。田都元帥は道教の護法神であり、芸事の守り神でもあります。

その下には虎ちゃん。ちっこい子供が足の間にいます。

他には観音仏祖、地蔵王菩薩、福徳正神など。

あとよくわからない謎生物。

本当の廟の修復なり再建なりはいつになるか不明なので、しばらくは民族路にあると思います。