景美集應廟

景美は台湾大学がある公館からMRTで2駅南下した街。あまり観光化されていない地元住民御用達の景美夜市があることで有名です。その景美の信仰の中心となっているのが景美集應廟です。

MRT景美駅のすぐ前に広がる景美市場。その細く雑然とした路地を進んでいくと廟があります。

清代の康熙年間、鉄観音で知られる福建の安渓から、高、張、林三姓の茶農家が台湾に移住してきました。中国からの移民は必ずその土地の信仰とともに台湾に渡ります。彼らが携えてきたのは、保儀尊王、保儀大夫の「雙忠」への信仰でした。台北に至った高、張、林の人々は、北部台湾各地に広がっていきます。景美もまたその一つです。

時代が下って清代の咸豊年間、萬華で福建の泉州出身の三邑人と、同じ泉州出身の同安人との械闘(武力抗争)「頂下郊?」が発生しました。これは、萬華にあった霞海城隍が現在の迪化街に移る原因にもなった事件です。

この抗争の禍が及ぶのを恐れた高、張、林三氏の人たちは、それまで一箇所で信仰されていた保儀尊王の神像、その夫人の神像、及び香炉を氏姓ごとに分けて、信仰を守ることにしました。そして、くじ引きの結果夫人の神像を得た林氏は景美と公館の間にある萬隆に萬隆集應廟を、香炉を得た張氏は木柵に木柵集應廟を、保儀尊王の神像を得た高氏が景美集應廟を創建しました。

そのとき分けられ、守られた保儀尊王の神像がこちら。「尪公」というのは保儀尊王単体ではなく、保儀尊王と保儀大夫をあわせた尊称であるようです。

その右側には、保儀大夫、福徳正神、大徳禅師が祀られます。

保儀大夫と保儀尊王は、ともに唐代玄宗の時代の人物です。安史の乱のおり、反乱軍から睢陽城を死守した太守の許遠が保儀尊王、許遠のもとで戦った武将の張巡が保儀大夫とされます。しかし、木柵集應廟では逆に許遠が保儀大夫、張巡が保儀尊王ということになっています。実際には許遠のほうが位が上なので、主祭神である保儀尊王が許遠だとするのが正しいでしょう。

大徳禅師というのはいろいろ調べてみたところ、『楊家将演義』で出家した楊延徳のことだとする情報がありました。

その左には保儀尊王のご夫人。これは林氏に分けられたものではなく、後にあらたに祀られたものだと思われます。

正殿の右側には文昌殿があります。

雑巾が干されて生活感がある廊下の外には盆栽が並べてあります。日本人は盆栽がまるで日本のオリジナル文化であるかのように言いますが、もともとは道教文化の一つで、仙境をイメージするジオラマ的な装置として発達したものです。それが日本に伝わり、日本人はその宗教的意義は一切理解せずにただのホビーにしました。

文昌殿というからには当然文昌帝君が祀られます。

学問の神様であることを象徴する文昌筆。

側方には太歳星君を祀る太歳殿。

正殿の左側には、財神を祀る財神殿があります。

私が訪れたとき、陶芸の街として知られる鶯歌の近隣、三峽などから来ていた訪問団が帰るところでした。

神像もお連れして来ていたようです。おそらくは、お連れした神様と一緒に帰るためには、それなりの手続きが必要なのでしょう。

神像が廟の外に用意されたお神輿に乗せられていきます。

廟の前からパレードが始まり、大きい通りに待機していたトラックに乗せられていきました。

ただこれらの道具などを運んで乗せるのではなく、神様の通り道を爆竹で清めて行幸の体裁を整えなければならなかったのではないかと思われます。