宜蘭感應宮

一言に「道教」と言っても、実際には中国で生まれたいくつかの信仰を最大公約数的にまとめた言葉で、例えば仏教でも上座部仏教と密教とはまるで違うように、道教の中でも違う信仰の系統のものがいくつかあります。

17世紀ごろから台湾には中国から移り住む人が増えていきました。それとともにそれぞれの土地の信仰が持ち込まれ、その一部は融合していっています。

移民したての中国人は、それぞれの出身地別に分かれて無駄に殺し合いを繰り返し、廟はそうした暴徒の基地になったりもしました。だから同じ道教といっても信仰の系統が違う=出身地が違うということで、系統が違う道教の廟が隣り合って建っているのはめったにないことです。

後に日本人という統治者が現れ、ちょっとした出身地の違いで争う頭の悪さに気づいた中国人移民たちは、徐々に融和して台湾人として進化しました。

現在では一般の台湾人はその廟がどの系統に属するものかは気にしません。

ただ、廟というのは系統が違えば商売敵にもなりますから、今でも違う系統の廟が隣接しているというのはほとんど見られないです。ところがなぜか、この宜蘭感應宮は宜蘭城隍廟と隣接して建っています。

同時に建ったわけでもありません。宜蘭城隍廟は1813年、宜蘭感應宮はそれから13年後の道光六年=1826年創建です。

なぜくっついて建っているか?このへんの事情はよくわかりません。

宜蘭感應宮の主祭神は孚佑帝君。八仙の一人呂洞賓です。

呂洞賓に対する信仰は2つあります。1つは主に中国北方で盛んな全真教。全真教では呂洞賓を五祖の一人に置きます。

もう1つは鸞堂恩主信仰。鸞堂は「儒宗神教」を名乗り、儒教の系統だと主張していますが、実際は道教の占いの一つ扶?(扶鸞)に源流があり、一部の鸞堂では呂洞賓のほか、関羽や岳飛などを「恩主」として信仰します。

台湾に全真教は少なくとも公的には伝わっておらず、恩主信仰は非常に広く行われています。

宜蘭感應宮は恩主信仰の系統に入ります。

呂洞賓は唐代に実在したとも言われていますが、実際のところは創作された人物でしょう。

科挙に2度落第した後、仙人の鍾離権と出会って修行の後仙人となりました。

呂洞賓に対する信仰はすでに宋代からあり、徽宗は呂洞賓を「妙道真君」に封じています。

元代になると世祖フビライにより「純陽演正警化真君」に封じられ、フビライの曾孫である武宗カイシャンからは「純陽演正警化孚佑帝君」に封じられています。

呂洞賓を純陽真人、孚佑帝君とも呼ぶのはこの封号によります。

呂洞賓が恩主として信仰されるのは、貧者に施しをし、困難を助けてくれるというどちらかと言えば仙人というより神様のような都合のいい存在だとされていたからでしょう。

その前には神医華陀が祀られています。

反対側から。

呂洞賓の横にいる緑の神様は柳星君、その反対側は袁天君。

前に魁星爺がちらっと見えます。さらにその前には呂洞賓と特に関係がない中壇元帥。

手前に見えるデコッパチは南極仙翁でしょうか?

祭壇の下には虎ちゃんがいます。

配神として福徳正神。

反対側には元始天尊、霊宝天尊、道徳天尊よりなる三清道祖。

太歳星君。2019年と大部分重なる己亥年の太歳神は謝太大將軍。

謝太は明代の人で、非常に清廉な人だったとか。

ある日道で大金を拾ったのでそこに自分の服をかけてその場に座り、待ち続けたところ、落とし主がやってきたのでお金を返しました。落とし主は感激し、お礼をしようとするものの、謝太は頑として受け取りません。

謝太の子孫は科挙を主席で通り、翰林学士となりました。

っていうだけの人です。

こちらはこの廟に関わってきた先達たちの位牌です。