宜蘭城隍廟

台湾は台南を占領していた鄭氏政権が滅んだ後、清朝の版図となります。しかし、清朝が支配していたのは台湾全土ではなく、またその統治範囲も主に台湾西側から広がっていきました。

宜蘭は、清朝が台湾を統治しだした1683年から130年近く経った嘉慶十五年=1810年に清朝の支配下に入り、その3年後の1813年に宜蘭城が完成しています。

この城は日本で言う城塞ではなく、塀で囲まれた「城市」都市という意味。

宜蘭城隍廟は宜蘭城の完成と同じ1813年創建。つまりは宜蘭で最も古い廟のうちの一座です。

同じ宜蘭の陰間=死後の世界を守る宜蘭東嶽廟より65年もはやく建てられています。

隣には孚佑帝君呂洞賓を祀る感應宮があります。

ただ、感應宮は鸞堂恩主信仰の系統、城隍廟とは信仰の系統が違うので、どうして隣り合っているのかはわかりません。

宜蘭城隍廟の城隍爺は、蘭邑都城隍。

城隍は一柱の神様の名称ではなく、役職名なので複数存在します。

『聊斎志異』には宋壽なる人物が突如神界に連れて行かれ、欠員ができた城隍の一人となるように命じられるという話があります。

城隍の中にも階級があって、赴任する町の規模から縣城隍、州城隍、都城隍・府城隍の区別があります。都城隍は城隍の中では最上位です。

蘭邑というのはつまり宜蘭のことですね。

道教のお祭りは基本的には神様の誕生日に行われます。

城隍爺の誕生日が農暦2月8日、東嶽大帝の誕生日が農暦3月28日ということで、東嶽廟ができてからは毎年2つのお祭りが連続して行われていたといいます。

それが、中華民国が台湾を占領した後には1つの祭りにまとめられ、城隍廟と東嶽廟のお祭りを1年毎に交代で行うようになったそうです。

こちらは城隍爺の息子たち。

入り口右側にはいろんなデザインの七爺謝將軍。

左側にはこちらもいろんなデザインの八爺范將軍がいます。

どちらも城隍爺の配下の捕吏です。町の中をパトロールし、悪霊がいたら捕まえて城隍爺の前に引き立てるのが彼らの役目。

いわば大岡越前に仕える岡っ引きのようなものです。

正殿内部の左右は壁に遮られた廊下になっており、それぞれにおそらく六司であろう神様が祀られています。

城隍廟の横には城隍福松廟があり、こちらには福徳正神が祀られています。

福徳正神は城隍爺の部下にあたる神様です。

城隍爺の管轄範囲が城、つまり都市で、福徳正神は城の中の町の一つや、城の外の村落などが管轄範囲になります。

一つ記事を立てるほどの規模ではないのでついでにこちらで紹介しておきます。