北巡聖安宮

50年にわたる日本の台湾統治の中で、現地の神様となった日本人が2人います。一人は台南の鎮安堂飛虎将軍廟に飛虎将軍として祀られる杉浦茂峰少尉であり、もう一人が嘉義の富安宮にて義愛公として祀られる森川清治郎巡査です。

森川巡査は日本の台湾領有より間もない1897年から台南のいくつかの派出所の巡査を歴任し、1900年に当時の台南県副瀨庄、現在の嘉義県副瀨村という半漁半農の村の派出所に赴任しました。

1900年というのは、第4代台湾総督児玉源太郎の時代。台湾でも評価が高い後藤新平による改革がやっと始まったころであり、まだ衛生環境も悪く、総督府による教育も普及していないころでした。

現在義愛公が祀られる富安宮は、どうやら森川巡査の生前からあったようです。森川巡査は、私費を投じて教師を招き、富安宮を学校にして村民に教育を受ける機会を作るとともに、衛生環境の向上にも努めました。また、農家出身であるために、自ら農具をとって、農業技術の指導も行ったといいます。

そうして村人と苦楽をともにした森川巡査は、村人から敬愛されるようになりました。

一方台湾総督府は、台湾特別会計法を施行し、台湾人に様々な税金を課しました。副瀨庄の村人にも漁業税がかけられましたが、貧しい村には大きな負担となったため、村人は森川巡査に減税を願い出ます。当時の巡査は徴税の役割も持っていました。

村の貧しさを身をもって知っていた森川巡査は、上司の園部という警部に減税を願い出ます。しかし、園部は逆に森川巡査が村人を扇動していると疑い、期限内に強制徴税しなければ免職すると言い渡しました。

森川巡査は、抗議の遺書をしたため、銃で自殺しました。

巡査の自殺から20年後、副瀨庄のある村人の枕元に森川巡査の霊が現れ、近隣に伝染病がはやっているから、衛生には注意するようにというお告げをしました。そのおかげで、村は伝染病の流行から免れ、それに感謝した村人たちは、森川巡査の像を作って富安宮に奉納し、神として祀るようになったといいます。

義愛公の別名は日本王爺。台湾南部は、伝染病をもたらす瘟神を討つ王爺の信仰の本場です。その信仰と現実の森川巡査の功績がこのような夢を見させたのでしょう。

力が強い王爺は信仰が広まります。台北だと朱・池・李の三府王爺の信仰が盛んです。義愛公も信仰の広まりとともに分霊が行われ、富安宮以外にも祀られるようになりました。北巡聖安宮も、義愛公の分霊を受けた廟の一つです。

実はここは天上聖母が主祭神の媽祖廟。私が訪れたときは、耳の遠いおじいさんが一人いて、日本から義愛公のお参りに来たことを告げると、義愛公の神像を教えてくれました。

こちらが義愛公の神像。天上聖母像の隣に安置されています。

千里眼将軍の隣には森川巡査の写真。

義愛公の前には中壇元帥。左側は田都元帥あたりの元帥神じゃないかと思います。

祭壇にはこの廟を取り上げた新聞記事がスクラップされていました。

私がお参りを終えると、おじいさんは『義愛公伝』という小冊子と、農民暦をくれました。上述の森川巡査が神様になるまでの歴史は『義愛公伝』にあった記述を大まかに訳したものです。農民暦というのは、日本で年末の本屋にならぶ高島易の暦の本みたいなもので、1年間の卦が書いてあります。

さて一応行き方書いておきます。

まずMRT中和新蘆線の迴龍行きに乗って、輔大駅で降り、出口2から地上に出ます。出たすぐ前の福営路を右方面・東向きに進みます。ちょっと歩いて左側に関帝廟があったら方角は合っています。

関帝廟からさらに進むと、右側に公園があるので、そのまままっすぐ進みます。すると、新樹路という2車線の道路に出るので、そこから右方面・南向きというか南西方面向きに進みます。

しばらく歩くと川があって、対岸に廟が見えます。

川を渡り、少し行くと門があるので、そこから路地に入ります。

壁に小さな案内板があるので、それに従ってさらに小さな路地に入ります。

路地っていうか、家と家の間の通路みたいなのをまっすぐ進むと、つきあたりが北巡聖安宮です。