西關廟

浅草の浅草寺には、飛鳥時代にある漁師が川で観音像を網にひっかけ、それを供養して寺にしたのが始まりだといういかにも嘘くさい伝説があります。

台湾にもそれと似たような話があるようで。

宜蘭駅の西、宜蘭河の近くにある西關廟は、清代に発生した洪水のあとある人が拾った関聖帝君の像を祀ったのが始まりだといいます。

浅草寺の成り立ちよりはまだ現実味があります。

廟として正式に落成したのは、光緒18年=1892年。

終戦から間もない1946年に宜蘭周辺に疫病が発生し、関聖帝君のお告げによって王爺船を作って流したところ、疫病がおさまったので、広く信仰を集めるようになったようです。

王爺船は王爺千歳信仰と大きく関わりがあります。

王爺千歳は、もともとは疫病をもたらす瘟神を鎮める信仰から始まりました。日本の神道でタタリ神を祭り上げるのと近いものだと思われます。

それが後に、瘟神を成敗する神が設定され、それが王爺、もしくは千歳神として今日まで信仰されています。

王爺船は、もとは瘟神を船にのせて海に流し、厄介払いをしようというものでした。それが王爺信仰の発達とともに、王爺の像を乗せ、瘟神もろとも連れて行ってもらうという形式に変化しました。

このエピソードは、関帝への信仰と王爺千歳信仰が結びついたことで生まれたものでしょう。

それと同時に、宜蘭にはまともな医療機関がなかったこともわかります。

中央に武帝爺となっているのはあきらかに関羽像なので、漢の武帝ということではないですね。

王甫は正史では劉備配下の内政官。演義では関羽の補佐官。道教の廟ではしばしば史実よりも小説の設定のほうが取り入れられます。

その向こうの趙累は正史でも演義でも関羽配下の武将です。

こちらが主祭神の関聖帝君。

左右を周倉将軍と関平が守るのが関帝廟の定型です。

周倉将軍の前には福徳正神。

二階に登る階段の横に、関羽の行いが五常にかなっているとする石刻があります。

曰く、

金に封をしたのが仁である。これは曹操に贈られた恩賞に封をして使わなかったことでしょう。

曹操を逃したのが義である。これは赤壁の戦いの後逃げた曹操を、恩義を返すために逃したこと。

燭をもって旦に達したのが礼である。これは、曹操のもとにあったおり、劉備の夫人と同室をあてがわれた関羽が、夫人だけ眠らせ自分はろうそくをもって夜が開けるまで部屋の入口で警備したこと。

七軍を水漬けにしたのが智である。これは樊城の戦いで于禁率いる七軍を関羽が水攻めで破ったこと。

単刀にて会に赴いたのが信である。赤壁の戦いの後、劉備と孫権は荊州の帰属問題でもめます。その交渉のため単刀のみをもって呉の魯粛のもとに話し合いに赴いたことです。

これもだいたい演義のほうからとられています。

二階は凌霄寶殿。玉皇大帝の宮殿を意味します。

ただこの玉皇大帝。赤ら顔で関羽っぽいですね。

道教の宗派の一部では、天帝=玉皇大帝は代替わりすると考えられています。そして、現在18代目の玉皇大帝となっているのが関聖帝君だとします。

この廟でもその説をとり、関羽を玉皇大帝の座に据えているということなのかもしれません。

その前にはだいたいどこにでもいる中壇元帥李哪吒の姿が見えます。

二階の外にある立派な香炉。位置が高く線香は挿されていません。

長寿をあらわす鶴に挟まれていることからなにかの象徴として置かれているか、特別な儀式のときにだけ使われるものなのかもしれません。

廟の入り口にある馬の像と五營神將の五營旗。

この馬の像はどうやら以前は五營旗とはいっしょにされていなかったようです。現在では五營旗とともにまぐさの意味を持つ草の鉢が置かれているので、もともと関係なかった像が五營神將の兵馬を表すものとして利用されるようになったのでしょう。