この記事が150件目になるようです。しかし記事化していない廟はまだ倍以上あります。まだ行っていない廟はたくさんあるし、一生紹介しきれないと思います。
台中に初めて行ったのが2004年のこと。有名な中華路夜市に行った帰りに迷い込むようにして見つけたのが台中順天宮輔順将軍廟でした。
それから14年も経った2018年に再訪がかないました。
台湾が清朝に統治されていた康煕60年=1721年、福建からの移民だった朱一貴が、同胞にかつがれて今の高雄を拠点に反清復明の反乱を起こしました。朱一貴の軍は北上しながら攻め上り、台湾各地を支配下において「大明」の建国を宣言して、年号を永和と定めるまでになります。
要するに劉備が劉姓であるだけで漢朝劉家の末裔だと言いはったりしたのと同様、朱姓だというだけで明朝朱家の末裔だと言いはったわけです。
しかし、それも長くは保たず内訌が始まり、特に福建出身移民と広東出身移民の対立が生まれました。
一方清朝は福建広東を統べる鎮総兵官藍廷珍将軍を派遣。18000の兵を率いて台湾に上陸した藍将軍は、わずか一週間ほどで朱一貴の軍を撃滅し、朱一貴を討ち取りました。
藍廷珍はその功により台湾鎮総兵官に任じられ、今の台中に拠点を置いて台湾開発に乗り出します。
廟の沿革によれば、福建漳州からの移民が多かった台中周辺の守護神として漳州人が信仰し、自らも代々信仰する輔順將軍を藍廷珍が福建より将来したのが台中順天宮輔順将軍廟の始まりだといいます。
しかし、日本統治時代に入った明治44年=1911年、総統府が公布した台中市区計画により、元々廟があった土地が新富小学校の用地として接収されます。
このように総督府が地元の信仰を軽視し廟を奪った、破壊したという例は枚挙にいとまがありません。
一部の日本人が主張する日本の台湾統治で宗教弾圧がなかったなどというのは嘘か無知であるだけです。
順天宮輔順将軍廟はその後今の土地が寄付され、再建されました。もちろんそれにかかる費用は有志の寄付によるもので、土地を奪った総督府からの補填はどはありません。
まず2階から廟内へ。
線香をいただいて火を付けた後、案内に從って3階からお参りします。
3階の中央に祀られるのは玉皇大帝。
その右側に至聖先師、つまり神格化された孔丘。
左には観世音菩薩。道教廟では珍しく観音仏祖ではなく観世音菩薩として祀られています。
壁面にはかなり年季が入った八仙図。
反対側には献寿図。献寿図は仙女の麻姑が西王母に長寿の酒を献ずるシーンで、不老長寿の願いが込められています。
再び2階へ。
まず中央はこの廟の主祭神である輔順將軍。
輔順將軍は、開漳聖王陳元光の部下であった馬仁が神格化された神様です。
いわば関聖帝君における周倉将軍のような立場で開漳聖王の配神として祀られていたのが、漳州における開漳聖王への信仰の広まりとともに存在が大きくなったものでしょう。
輔順將軍の前には中壇元帥軍団。
昔台湾の廟に哪吒の像があるのを見つけて大発見のように騒いでるサイトがありました。でも台湾では、哪吒が主祭神の太子宮こそそれほど多くはなくても、哪吒が祀られている廟などそこらへんにいくらでも転がっています。
配神として医神保生大帝。
註生娘娘と月下老人。
それに天上聖母媽祖。
藍廷珍は輔順將軍とともに媽祖も将来して媽祖廟も立てており、それは同じ台中の萬春宮となっています。
媽祖の横に吊り下げられているのは、月下老人に縁結びを願い、それが成就した人が奉納したものです。
そして地蔵王菩薩。
出会いから出産、地獄まで面倒見ますというラインナップですね。
2階の柱の間にはまず都市の守護神城隍爺。
反対側には包府千歳。宋代の名裁判官包拯です。
包拯は死後に閻羅王になったという伝説があり、城隍爺とともに死後の世界の安定を担います。
最後に1階へ。ここにも輔順將軍が祀られます。
他に斗母元君。
その年の太歳星君。
文昌帝君。
武財神趙公明を中心とした文武の財神。
福徳正神とその下に虎ちゃん。
1階の拜拜が終わったら外にある五營將軍の祠に行きます。
中には金に塗られた五營將軍。
その向かいに立派なお馬さんの像があります。輔順將軍廟はまた馬舍公廟とも称します。
その前に置かれている鉢植えの草とバケツに入った水は馬のためのもの。
ここに天将の軍勢がいるぞと知らせる魔除けの意味があります。