台南に延平王祠という鄭成功を祀った霊廟があります。ただ、ここは鄭成功を顕彰するという意味合いが強いようで、道教の廟として扱っていいのか迷うので、現在のところこのブログで紹介するつもりはありません。
さてその延平王祠から、台南の城隍廟へ向かうと、ちょっと衝撃的な看板を見つけました。
その看板を出していたのが、この小さな福徳廟です。
油行尾福徳爺廟の創建は、嘘か真か鄭成功の死から4年後の1666年。それが本当なら、台湾で最も古い道教廟といわれる全台祀典大天后宮よりも古いということになります。
狭い廟内にごじゃあっと神様が並べられる台湾によくあるスタイル。
福徳正神の神像はかなり立派です。
どこの廟でもだいたいいる中壇元帥。
横に順風耳と千里眼がいることから、左の大きな神像は天上聖母だと推測されます。
福徳廟につきものの虎ちゃんは「福虎将軍」という名前で祀られています。
さて、ここまではどうってことない台湾ならどこにでも転がってるような土地公廟です。
問題は、中壇元帥の横。
施琅将軍。
この施琅将軍が看板になっていたので、わざわざこの廟にたちよって拜拜したのです。
施琅は、鄭成功の父親・鄭芝龍の部下の半分海賊、半分貿易商人でした。
明朝が滅び、鄭芝龍が清に降ると、施琅は一度はそれに従ったものの、鄭成功について反清復明の手助けをするようになります。
しかし、鄭成功の軍内で内紛があり、施琅は相手を殺害して逃亡。残された施琅の父と兄弟は鄭成功に殺されました。
家族を殺された施琅は、再び清に降りました。そして、鄭成功を迎撃する側になり、功を挙げます。
中国での拠点を失った鄭成功は台湾に逃亡し、台南を支配していたオランダ人を駆逐、台南を占領下に置いたはいいものの死去。息子の鄭経が、政権らしきものを樹立して台南を支配します。
施琅は再三台湾攻略を進言するものの、清の朝廷は積極的ではありませんでした。
しかし、鄭経が死去して鄭克塽が鄭氏政権を継いだ時点で、時の皇帝・康煕帝は台湾攻略を決意。施琅が将軍に任じられました。
そして鄭克塽は施琅に降伏。3代に渡る鄭氏による台南支配は終わり、清朝による支配が始まることになります。
と、いうことで、鄭成功は冷静にみてしょせん一時期台湾を占領統治したに過ぎないとはいえ、漢人移民からすれば、異民族オランダを駆逐した英雄であるわけで、その功績から神様として祀られています。そして、鄭成功を崇める立場からすれば、施琅は裏切り者になります。
だから、台湾で施琅が祀られるというのはものすごいことなのですね。
どうやら1980年代にこの廟の土地公がかつて施琅と過ごしたことがあるので、施琅を祀りなさいというお告げをしたため、台湾で唯一、この廟に施琅が祀られているとのこと。
つまり、ずいぶん長いこと祀られていて特に問題も起きていないようなので、まあ地元の人にとってもありなのでしょう。