東嶽殿

台湾に中国から漢人が移入し始めたのは、中国の明代、日本だと戦国時代ごろにあたります。そして最も古く中国人が住み着いたのが台南周辺。それゆえに、台南には台北よりもはるかに古い道教廟がいくつもあります。台南の街角で家屋の隙間に押し詰められるように建っているこの廟。実はかなり古い由緒があるものでした。

東嶽殿側の主張によれば、創建は永曆二十七年=1673年。永暦というのは、清朝に滅ぼされた明の亡命国家南明の年号です。ただし俗に永暦帝と称される昭宗の在位は永暦16年=1662年まで。その翌年1663年に昭宗は殺されて南明は完全に滅びています。

しかし、永暦16年に台南を占領した鄭成功とその後代は、あくまで反清復明を掲げて皇位名乗ることはせず、年号は永暦のまま使い続けました。年号を変えるのは皇帝のみですから、永暦を使い続けることで朱家への忠節を保ち続けたとも言えます。永暦は停止政権が滅びる永暦37年=1683年まで使われました。

台湾が清朝統治下に入った後、東嶽殿は幾度も修復を繰り返します。しかし日本時代の昭和17年=1942年、市場の建設を名目として前殿が破壊されました。

さらに中華民国による占領後も道路拡張のために削られます。それで今日のような建物におしつめられるような形になってしまったようです。

東嶽殿というからには、当然主祭神は東嶽仁聖大帝です。

東嶽大帝は泰山の主泰山府君でもあります。

古代中国では泰山は死者の魂が集まる場所と考えられていたため、東嶽大帝は冥界の主宰者ともされました。

仏教の流入により地獄の概念が伝わってからは、泰山は地獄の入り口とされ、東嶽大帝は地獄を司る神となります。

その東嶽大帝の横に祀られるのは天醫真人孫思邈。孫思邈は現代まで伝わる中医古籍『千金方』を著した医師です。

その左右には地獄の獄卒牛将軍と馬将軍。陰間の捕吏である七爺八爺。牛馬の将軍は仏教の牛頭馬頭の丸パクリです。

七爺八爺は本来城隍爺の配下ですが、城隍爺の上司にあたる東嶽大帝の廟にも祀られます。

地獄の主宰者として「善悪有報」死者の善悪に応じた報いを与える職能も付与されています。

この扁額は、光緒8年=1882年に、台北艋舺の營守備、羅勝標が奉納したものと伝えられます。

その下を通り中殿へ行くと、地蔵王菩薩が祀られます。地蔵王菩薩は「幽冥教主」とも呼ばれて、東嶽大帝のさらに上の立場とされています。

このへん設定は非常に曖昧ですが、だいたい地蔵王菩薩がCEOとか大統領、東嶽大帝が社長とか首相という立場という感じではないかと思います。

ということで左右には十殿閻羅が祀られます。

地蔵王菩薩の横には福徳正神。

さらにその横には朱匡爺。

朱匡爺は唐代の進士であり、浙江省の青田県県令だった朱匡のこと。朱匡は水害によって被害を受けた難民のために官庫を開いて災害救助に努めました。

ところが公費を勝手に使ったと讒言されて斬首にされました。

朱匡斬首の後、青田県に天然痘の大流行が発生。それが朱匡の祟りだとされ、皇帝はあわてて朱匡を神に封じました。

そうしたことから朱匡は疫病をもたらす瘟神だと考えられるようになったようです。

しかし、生前の功績から朱匡が白鶴に生まれ変わって空から見守ってくれているという信仰も生まれ、白鶴仙師と呼ばれるようにもなりました。

瘟神信仰は、それを駆逐する王爺信仰に連なるので、朱匡“爺”とついているからには王爺ともされているのではないかと思われます。

その反対側には護国尊皇。この顔の隈取から、鍾馗ではないかという気がします。

後殿には酆都大帝。

酆都大帝は酆都という地府の主宰者です。

もともとは泰山府君とは別系統の冥界信仰から生まれた神でした。それが泰山府君とともに道教に取り入れられ、泰山府君の下に組み込まれることになりました。

ただし、もともとの酆都大帝を信仰する側では、酆都大帝が上で泰山府君が下という設定にもなっているようです。

台湾では東嶽大帝が上で酆都大帝がその配下という設定が強いようです。

そして、そうした陰間を司る神々の中だと下っ端になる城隍爺。

地蔵王菩薩=CEO、東嶽大帝=社長、酆都大帝=副社長、十殿閻羅=本社役員、城隍爺=支社長ぐらいの立場になる感じです。

各地の陰間で瘟神悪霊を取り締まり、裁判をして地獄に送るというのが城隍爺の役割になります。

死んだあとにはまた生まれにゃならんということで註生娘娘。

副殿には観音仏祖。

最後に正殿に戻って虎ちゃんを拝みます。

台南では台北のように祭壇の下に入れられている虎ちゃんは少なかったです。