天尊廟

那覇市のゆいレール県庁前駅から少し南下した地域は久米と呼ばれます。ここは琉球王国時代には福建から渡ってきた人々が住む地域で、久米に住む中国人移住者たちは「久米三十六姓」と呼ばれていました。

人間が渡ってくると、当然その地の信仰も移入されます。この点は台湾も同じですが、沖縄の場合は先に沖縄の人々によるウタキ信仰などがありましたから、台湾ほど強烈な、広範な伝播はありませんでした。ただ、ウタキや拝所をめぐると、ある程度道教の影響が感じられる部分があります。

また、沖縄の街角ではよく黄色い紙に丸い押圧が並んでいる「打ち紙(ウチカビ)」と呼ばれるものが売られているのを見かけます。これもまた中国から伝わったもので、「あの世」の通貨として使える紙銭と同じです。というより「紙銭」と書いて「かびじん」と呼ぶこともあるそうなので紙銭そのものです。沖縄の紙銭にはウチカビの他に「白紙(シルカビ)」もあります。

ウチカビは先祖の霊が使うためのもので、中国の銀紙と同じ、シルカビは神様へ捧げるもので中国の金紙と同じです。

さて、ゆいレールの旭橋と県庁前駅の間ぐらいから南に伸びる県道47号線を南に行くと、その突き当りに波上宮、その隣に護国寺、さらにその隣に天尊廟があります。

門や石垣などは、首里城にも共通する沖縄の様式です。

中に入ると正面に正殿があります。正殿も赤瓦の沖縄風家屋っぽい。

ここはもともと天尊廟があった場所で、かつてあった廟は沖縄戦の時に爆撃によって焼失しました。

昭和50年に再建されましたが、なぜか同じく戦争で焼失した孔子廟も合同で建てられることになりました。そして、いわば軒先を貸して母屋をとられる的な感じで、この正殿には孔丘が祀られていました。

平成26年に福州園の隣に新しい孔子廟が建てられたためにやっと孔丘が出ていき、正殿は天尊廟に明け渡されました。

道教には天尊号を持つ神様が何柱かいますが、この天尊は雷神の長官である九天応元雷声普化天尊です。私は台湾では雷声普化天尊が主祭神になっている廟に行ったことはありません。

そして隣には天上聖母が祀られます。千里眼と順風耳に守られているという基本設定は受け継がれているようです。

天上聖母の向かいには関聖帝君と龍王。かつてはそれぞれ別の廟に祀られていたのが、洪水やらで壊れたので天尊廟に合祀され、それがそのまま受け継がれてきたとのこと。

『絵でみる御願365日』(むぎ社編/むぎ社刊)によると、1690年以降に琉球王府でも関聖帝君のお祭りが行われるようになり、やがて久米の人々も関聖帝君の掛け軸をかけて拝むようになったとか。

龍王については、龍王とだけあってどの龍王なのかはわかりません。とにかく龍の王という大雑把な認識なのでしょう。沖縄にはウタキ信仰の他に井戸に対する信仰もあります。井戸といえば龍神がつきもので、台湾には大稻埕慈聖宮など井戸を「龍井」として祀る廟がいくつかあります。

これは首里の儀保にある北森御嶽という拝所群の中にあったもの。首里の高台から遠く海を望む位置にありました。龍神は遡ればインドのナーガ信仰にまで行き着くと言われているものの、龍神というからにはやはり中国から伝わったものであるはず。

大河や高山がない沖縄では、地下水脈は貴重な資源であり、台風による洪水災害も多い。井戸に水が運ばれてくるのも台風で大雨が降るのも龍神のしわざと考えて、井戸やこのような拝所で龍を祀るのではないかと思われます。

だから、龍神の王である龍王が、フィクションに登場する四海龍王のようなよわっちい連中だと困るということで、そういうのとは一線を引いたただの「龍王」なのかもしれません。いやこれはなんの根拠もない私の妄想に過ぎませんが。

正殿の横の小高い丘には程順則頌徳碑と蔡温頌徳碑。程順則は琉球士族であり、琉球で初めての公立学校を建てて教育の普及に努めた人。教育といっても当時は主に儒教です。清に渡って明の孝武帝が発布した「六諭」を、明末清初の学者・范鋐が解説した書である『六諭衍義』を持ち帰り、それを暴れん坊将軍に献上しました。

ちなみにこの范鋐という人、台湾のyahooで検索しても、中国の百度で検索しても、『六諭衍義』を著した人という以上の情報はなく、どのような立場だったのかはわかりません。

『六諭衍義』で解説される六諭というのは儒教の道徳を元にした「孝順父母、尊敬長上、和睦郷里、教訓子孫、各安生理、毋作非為」。4つまでは訳さなくてもわかると思います。「各安生理」の生理は日常生活ということ。各自日常の自らの生活に安んじろ、つまり仕事や家事、勉学に励み遊んだり反乱起こしたりするなということ。いかにも儒教らしい堅苦しい考え方です。「毋作非為」の毋は母ではありません。現代中国語にすれば「不要」にあたる言葉で、非為は道徳に反する行為。だから道徳に反することをするなということです。

ちなみに今いろいろ話題になっている教育勅語はこれをパクったものですね。中国大好きなのに教育勅語を批判する人はどう思ってるんでしょうか?特に悪いことは書いてありませんが、儒教嫌いの老荘思想の立場から言わせてもらえれば「大道廃有仁義」ってところです。まあだから今の世に教育勅語の必要性が説かれるのでしょうけれど。

蔡温は久米三十六姓出身で琉球王の補佐をする国師となった人。治水、農業・林業改革などに努めました。17世紀末から18世紀中頃という比較的新しい時代に生きたために「沖縄に尽くした偉い人」にとどまっていますが、古代で同じことをしたら神様として祀られてもいいぐらいの功績を残した人です。ゆいレール牧志駅のすぐ近くには「蔡温橋」という橋がかかっています。この橋がかかっている安里川も蔡温が運河として整備したといわれていますが、それゆえに蔡温橋なのかどうかはっきりした由来は不明です。

こちらが孔丘が正殿を占領していたときに九天応元雷声普化天尊以下道教の神々が押し込められていたお堂。再建したのが孔子廟を管理してる団体だからしょうがなかったんですけど。

つまり、福建から人々とともに神様への信仰も渡ってきたけれど、それをまとめ、布教すべき道士は来ていなかったから、沖縄への道教の伝播は限定的になっているのでしょうね。

今は一応廟管理されてはいるものの、天公炉がないし、各神像の前には香炉は置かれているけれど柵で遮られていて線香を挿せるようにもなっていない(一応柵の前には石の香炉が置かれていて沖縄式の礼拝はできるようになっているものの)。それに道教の廟に必ずあるべき焼却炉もない。廟の焼却炉というのは紙銭などを燃やして天に届けるための非常に重要な設備です。だからここは廟とはいっても形ばかりになってしまっています。